家族への感謝と父への敬意最大の師、父と共に歩む

白石地区組合員

中村 幸男さん

「自分の中で、父親以上の存在はいないですね」そう真っすぐな眼差しで話してくれた中村幸男さん。日々、父と対話を重ね受け継がれていく想いと技術がそこにあった。

泥炭地ならではの
強みを活かした栽培

「米が豊かに実る里」という願いを込めて、名付けられた札幌市白石区「米里」。この東に位置する「東米里」に中村農園がある。今年の札幌は記録的な雪不足と言われていたが、取材に訪れた2月下旬の圃場にはいつもの銀世界が広がっていた。

中村農園は、道央自動車道を挟んだ両側に玉葱畑がある。札幌伝統野菜である札幌黄をはじめSN3A・北もみじ2000の栽培など、330aの畑で約百万株の玉葱を作付けしている。

この地域は、水が豊かであったことから、明治中期から稲作が行なわれ、中村農園では昭和30年代中頃から玉葱の生産を始めた。泥炭地で保水性が高く、乾燥時の水分保持力が一般土壌よりも高い。その保水力は裏返すと水はけの悪さでもあり、かつては水害に悩まされてきた。父親の邦男さんをはじめ先人達が長い年月をかけて河川や排水の整備を根気強く進め、その弛まぬ努力が実を結び、今では玉葱栽培に適した地と言われるまでになったという歴史がある。

邦男さんは18歳から就農して農業一筋

最大の師、
父と共に歩む

幸男さんは、中村農園の5代目。2011年3月に東日本大震災が起こり、家族や食をはじめ生きることに対しての「あたりまえ」の概念が変わった。数か月後には一緒に農業をしたいと決断しサラリーマンを辞めた。親元就農に舵を切ったのは、大きなチャレンジだったが、それを上回る強い想いがあった。幸男さんは、高校時代の3年間を寮で過ごした経験がある。

「親と離れた期間があるから、今は一緒に居たいと想う気持ちが人一倍強いのかもね。寮に親が来て帰っていくのはすごく寂しかった記憶がありますね」

幼い頃から繁忙期に手伝っていた経験はあるものの父に学ぶ日々。14年経った今でもそれは変わらない。作業中や家でも折りに触れて父に相談する。機械のことや施肥設計など、アドバイスを聞いて作業を組み立てるのだ。

「頼りになる存在がすぐ傍に居て、常に相談できるのは本当に心強いし有難い。後にも先にも父親以上の存在はいないね。少しでも長く一緒に農業を続けていきたいね」

左から、弟の修治さん、母の礼子さん、邦男さん、幸男さん、絵梨佳さん

14年前の
父の想いを繋ぐ

幸男さんに生産のこだわりを聞くと、「こだわりの作り方は…難しいですね」。思案する幸男さんの傍で、言葉を引き継いだのは妻の絵梨佳さん。「毎年同じ手順でコツコツと、基本的な作業に手間をかける。お義父さんの代から作り方を変えず、そこは妥協しない。その一つ一つが良質な玉葱の生産に影響しているのだと、私は感じています」そう力強く話してくれた。

取材当日は、玉葱生産のスタートとも言える播種作業が行なわれていた。黙々と、がむしゃらに作業する幸男さん。一つ一つの作業を実直にこなしながら、やさしい表情で幸男さんにアドバイスをする邦男さん。作業を行ないながら、家族揃って営む農業の話を嬉しそうに語る邦男さんの表情が印象的だった。

幸男さんに将来の展望を尋ねると、「作るのが難しいと言われる札幌黄だけど、これからも作り続けたい。親と一緒に農作業をする中で、今ある幸せを噛み締めながら、受け継いだものを残していきたい。僕も父同様、守りには入りたくないですね」という答えが返ってきた。

“守りには入りたくない”

今から14年前、本誌の取材で邦男さんを訪れた際に話してくれた言葉が、時を経て脈々と息子に受け継がれていた。

常に父から学び続け、共に歩みながら作業を行なう父と息子の間に流れる特別な空気感。いつか最大の師である父の背中を追い越す時には、新たな扉が開けているに違いない。

ポットに種を入れ約2週間後に発芽。
この日は、約2,200枚のポットを約6時間で作り上げた
播種作業は一袋19kgもの培土を165袋も機械に入れる重労働
播種後の苗箱を自動で積み上げるポット積上機